少女終末旅行を僕はいずれ失うと思う

最近、祖父の一周忌に参加した。

祖父は写真をよく撮る人だった。よく撮るというだけでなく、とてもうまい写真を撮る人だったが。
幼い自分を山ほど撮ってくれたし、自分の父が幼い頃の写真も沢山あった。はじめてみるようなとても若い祖母の写真もまた沢山あった。

本物の露頭のように分厚いアルバムの地層の一番下の方には、茶けてひび割れが走ったような古いものもあった。紛れもなく一族の記録なのだが、高齢の親族が回し見ても、誰が写っているのかさっぱりわからない代物だった。集合写真なのだが、被写体の名前が一人としてわからない。そうなると当然、撮られた時期も土地も理由もわからない。付加されるべき情報がまるごと失われてしまっていたのだった。

漫画 少女終末旅行の終わりを語るにあたって、そんなことを思い出した。ここより先、深刻なネタバレーション現象が発生するので御注意願いたい。

ここ最近なにかと忙しくて、ようやく第六巻を読むことが出来たのは四月の中旬だった。
正直なところ結末は予想がついてしまっていた。SNSでの反応をみるに、ああ、そうなんだな、と思っていた。そして実際そうなったのだと思う。説明が下手で申し訳ないが、そういうことです。

僕はその旅の終着を受け入れて、感慨に浸っていた。そしていかなる感想も言うまいと思っていた。チトとユーリ 二人の旅をわざわざ僕が肯定する必要がないのだ。むしろ、言語にすると沢山のものがこぼれ落ちて、ただ語義を納める箱だけになってしまうとすら思っていた。それは風化し、やがて劇中の画面を埋めていたような廃墟になっていくのだろう。

しかしふと、僕は廃墟を残したくなった。最終巻の最後のコマを見て、そこに並んだヘルメットのようなものを残せるのなら、自分はそれで良いと思った。例えそこに二つの小さな頭が収まっていた事実が失われたとしても、いくらかましかもしれない…

ここで自分の少女終末旅行についての思い違いを告白したい。僕はこの作品を、二人が人類の記録や記憶を「得ながら」旅をしていく物語だと考えていた。しかし、実はそれは真逆だったかもしれないと、第六巻を読んで悟った。これは二人が得る話であり、そしてやがて「失っていく」話だった。
チトは本を得て後に燃やし、ユーリはレーションを見つけるも、これは食べると無くなる。作った地図は散り、得た手助けで完成した希望の翼は折れ
二人は一匹のさかなの命を救ったが、その手で不慮にAIの命を奪ってしまう。ラジオはぬこの体内に消えた。託されたケッテンクラートは壊れて温泉に。

本来二つは不可分の物だということを、僕らは日常生活のなかで忘れるように努めているだけなのだが、廃墟の世界ではすべてが明らかになっている。

自分がいつか前に書店で少女終末旅行の一巻を発見し、その後各巻を追い、アニメ化に喜んだとき、僕は確実になにかを貰っていた。六巻を読み終えて、今もそれを大切にかかえている所だ。

となるとやはり、やがて失っていくのだろうと思う。いつかはわからない。唐突に不運が自分ごと消し去るかもしれないし、そうでなくても老いて忘れてしまうかもしれない。いずれにせよ生きていればそのときが訪れる。

それでも今思う。
少女終末旅行の全巻を読んだことは、最高だった。


長々と煮えきらぬ態度で文を失礼しました。
じゃ、そろそろ麦畑に行こうと思うので、ここら辺で。