ブイ・アール・チェイス・インザスカイ

突発的に小説を書くな
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 この物語は全くのフィクションです。しかし、十年後においては定かではない…?


1.

 A.D.2030 VRChat  private world

 パーティクルの光の粒が舞い踊って少女の視界を覆った。彼女は鬱陶しそうにそれらを追い払うと、ため息をひとつついてまた暗い道を歩む。
 しばらく進み、また光塵を追い払い、また進むと、柱のような地下茎に挟まれて、なかば空間と同化するようにして立つ家が見える。目当ての人物はそこにいるはずだった。
「ファンタジックなのは良いことなんだけど、いいかげん人を呼ぶときくらいあのパーティクルもどきを切ってくれない?」
 戸口から声をかけられた家の主は憮然とした様子で振り向いた。
「パーティクルもどきとはなんですか、ありゃしっかりひとつひとつ機械学習させて生物のような振る舞いをですね」
「メール」
 日本の学校の制服に似たような、似ていないような、有り体に言ってアニメの登場人物のような服を着た少女は強引に言葉を遮る。そして簡素なエプロンをつけた女性に、青く光るウィンドウを突きつけた。
「読んだんだけど、何?」
「そこにある通り」
「もうパイロットはしないって言ったじゃないか」
「でも、あなたにのってほしい。あれは熟練じゃないと乗りこなせない」
「なんでそんなもんをつくったの」
「レースで、こんどこそ勝つため」
 レース。カートやレーシングカーや馬の競技ではない。「空飛ぶ箒」に乗って行われる、最速を目指す競技だ。十数年間で50回以上開催されており、数多の名パイロットと名メカニックを産み出してきた。
「そんなに強い箒を造ったのなら、当然乗るのが私じゃなくても速いでしょう?」
「熟練の技術が必要なんです」
「欠陥もいいところだ」
「なんとでもいいなさい」

 窓から迷い混んできた光の粒が、ちりちりと二人の間を飛ぶ。行き場のない沈黙を破るように、エプロンのメカニックは出し抜けにずいと近寄った。互いの目が瞳の中に写り混むくらい近い。
「ところで、あなたまた可愛くなったんじゃないですか?」
「え?」
「細かい動きが繊細になってる」
「近い、近い」
「ほら、そうやって払い除ける動作も…これだけ可愛いのなら、絶対似合うはずなんだけど?」
 メカニックは一着の服を取り出して目の前に持ち上げた。ピンクのパーカーに暗い色のスカート。美しくゆれても破綻のない、プロの縫製の代物だ。
「う」
「どう? 欲しくない?」
「いくら…」
「ん?」
Amazonギフト、いくらぶん…」
 メカニックは目を細めて微笑む。
「ありゃあ、Amazonギフト券なんて要らないですよ。あの箒に乗ってくれさえすればね」

 灯りのともった工房のひときわ明るい一角、作業台に置かれたそれを、二人で見遣る。昨晩、新しく産み出されたばかりの空飛ぶ箒を。
 鈍く光ってテクスチャの目地を浮かび上がらせる、そのポリゴンを、少女はそのときはじめて手に取ったのだった。

ダンジョン映画とムービーフェアリー ~VRドラマ雑考~

 皆さんは子供のころのことを覚えているでしょうか。小学生くらいのあなたのことを。

 僕はそのとき「樹」でした。森に生える樹です。あ、まだブラウザバックしないでください。学芸会の児童劇の話です。樹の役だったんです。みじめ~~。

 その時の光景をおぼろげながら覚えていますが、同時に、なんだか不思議な気持ちを抱いていたように思います。

 ちょうど舞台の中央あたりに生える樹でしたので、自分からは王子様を、姫様を、そのしもべたちを近い位置で見ることができた。いつも映画館とかで自分がいる客席という場所は、舞台の床越しに黒く遠く………。

 筆者はまさに演劇の真っただ中にいたのでした。まさに物語の真ん中に生える樹になり、物語のストーリーを見渡せる位置にいたのです。今考えると貴重な体験でした。あれですよ、リズと青い鳥の舞台の壁になったり飼われてるフグになるみたいなやつ。

 

VRドラマのお話です

 今回は、前回に引き続きVRドラマのお話です。次回のIf Vtuberが楽しみなところではありますが、それだけでは収まらない話題を目にしてしまいました。

 360°映像のVRドラマ。

 その名の通り全天周視界で進行するドラマという案ですが、これはめちゃくちゃおもしろく、また未来を感じてしまう単語であります。

 皆さんもあれじゃないですか?Vtuberが演じるドラマの真っただ中に飛び込みたいとか、そういう思いはありませんか………。

 そしてVtuber(バーチャルアクターくらいの意味で使います)の人々がVRドラマというジャンルを作るにあたって、360°化という道は大きな可能性を秘めているとも言えます。前回対比したテレビドラマという形式を、大きく飛び越していくような可能性があるのではないかな~と。

 

360°にするとめちゃくちゃ夢が広がる なんたって360°だから

 まず第一回のVTV内で放映された「If Vtuber」を参考にしながら、この先の発展を予想してみましょう。「If」は実に史上初めてか2回目くらいのVRドラマですから、まだまだどう進展するかわかりませんが、今回は映像技法に絞り考えてみたいです。

 第1回「If」の映像を分析してみましょう。舞台は一般家庭のリビング。番組が映るテレビと、美麗な着物の月詠さんがテレビを見ている後ろ姿から物語がスタートします。続いてソファーを斜め上から映すカットになり、つくしさんを呼び寄せる様子が映ります。続いてまた視点は移り………

 このように、バーチャルカメラは複数台設置されていて、適時計画の流れに沿って切り替えることによって、物語の流れを作っているといえます。カメラに映したいもの&行動には、上がったり下がったり、寄ったり離れたり、それにふさわしいアングルがあてがわれる。このようにカットの切り貼りで映像を作ることを「モンタージュ」といいます。とりあえず「If」、モンタージュってます。

 カメラは基本的に固定されており、横に動いたり首を振ったりすることはあまりありません。シンプルで簡単な、手堅いつくりと言えるでしょう。協力者が限られる中で生放送するために施された工夫を感じます。

 

 さて、ここまで観てきた”映像”技法は、現実世界のドラマや映画と同じやり方がされているように見えます。視聴者は複数台のカメラから家庭を覗いているわけです。

 ではたとえば、もっと凝ったものをつくれようになったとしたら。もっと多くのバーチャル人々の協力が得られて、時間も無制限に使えるVRドラマを作るとしたら?

 VR空間ですから、クレーン撮影や空撮も自由自在です。物理的な大きさがありませんから、セットも広く広くできます(重くなっちゃうとは思いますが)。テレビ番組にも匹敵するような面白い映像が作れるに違いないと思います。しかし。

 筆者は多少夢見がちなので、さらに先を考えずにいられません。それが全天周化です。首を振って360°見渡せるドラマは、今テレビでは見ることができません。しかしVR空間なら、リアルの全天周カメラを使わずとも、比較的簡単に360°映像を得ることができますし、配信もシームレスです。

 

 加えて言うのならば、「映したくない場所は映らなくできる」というのも大きいでしょう。たとえば、実写ならセットとセットのつなぎ目が存在する場合、丁寧に隠さないと、勝手に首を振り回す視聴者が発見してしまいかねないとか、いろいろな制約が入ってしまいます。カメラのある位置から見える場所すべてが画面になるという特徴は、見せたいものをたくさん見せることができるのと引き換えに、見せたくないものまでたくさん見えるようになってしまうという事態を呼び寄せてしまうのです。

 しかし、VR空間上ならそこを解決できます。映像トリックでごまかさないといけないような特殊な場所や現象も、あらかじめ用意しておいた仕掛けで引き起こして、さらにその舞台装置をまるきり最初から見えなくしてしまう、ということができる。これはとても大きな利点ではないでしょうか。

 3DCGアニメでもいいんじゃないかって? もちろんそうだとは思います、が、360°すべての動くものやキャラにアニメーションをつけていくのはなかなか骨の折れる作業なのではないかとも思うし……… 場合によると思いますが、キャラクターがたくさん出てくる場合ならば一人一人に演技してもらった方が、簡単に上質なものができると思います。どうなのでしょうか。全部わかんねえ。

 ともかくも、実写・アニメよりも全天周映像を作りやすいという事があると思います。

 VRドラマが映像的に強みを持ちたいとき、360°化は悪くない選択肢なのではないでしょうか。

 

映像技法が問題だ

 じゃあもう少し歩みが進んで、実際に360°ドラマを作れるようになったら? 少なくとも配信システム的には全天周映像を視聴者へ届けられるようになった時、どのように映像を作っていけばいいか考えてみましょう。というか考えてみました。

 まず、既存のモンタージュ技法が役に立たなくなってしまいます。従来のドラマのように、カメラをいくつもおいて頻繁にカットを切り貼りしたら、視聴者はヘッドセットやスマホの視界の中で混乱してしまうことになるでしょう。臨場感が増した分、脳の理解が追い着かなくなることが考えられます。

 モンタージュれなくなると何が問題かというと、視線/注意を誘導できなくなる。

 シーンを想像してください。たとえば、人から衝撃的な事実を聞かされたバーチャル埼玉県民がいたとしましょう。普通の映像なら、人から聞いているカットは二人分の姿が収まる遠くからのカット。驚く瞬間だけはつくしさんの顔がクローズアップされたカットにして驚愕を表す・・・などのモンタージュを行い、「驚愕している」ということを演出します。360°の没入空間でこれやったらいきなりガチ恋距離です。たぶん結構の数の人が呼吸困難になるのではないでしょうか。つくしちゃんをすこれ。

 まあ驚愕、なら物語の流れと反応の派手さで自然と視線が向くかもしれません。だけどたとえば、その直後にどこかの国王さまが視界の裏でスクワットしていたら。のらの貴人が静かに微笑んでいたら。それも無言で。見逃してはいられないのに、そのことに気づけないのです。ここが恐ろしいところです。

 「見せたいものを確実に見せられなくなる」ということが起きうる。

 

ではどうするか

 自分なりにいくつか解決法があるのではないかと考えます。

・視界内で自然と誘導されるようにする「絵巻物」型

 人間の視界は左右に100°、上下に60°ほどが確保されています。この範囲からあまりはみ出ないように見せたいものを見せ、視線・視界をどこか違う場所へ連れていきたいときは、連続した動きで導く、という感じでしょうか。たとえば、目立つ赤いボールが転がっていったら、それを追いかけるように視線が動くでしょう。シャイニングかなにか? 

 鳥獣戯画などの絵巻物も、時間の連続性に沿った絵の配置がされており、ひとつながりの紙面上で物語の流れがわかるようになっています。

 

・見せたいところをまんべんなく配置する「ゲームブック」型

 あの名シリーズ「ウォーリーをさがせ」のように、小さな見どころをたくさん仕込んだ映像です。どこを見ても各自が小ネタ・小芝居をやっていて、視聴者はある程度能動的に視界を滑らせてそれらを楽しみます。従来の実験的な全天周映像によく使われているシチュエーションですね。そもそも視線の誘導を必要としない映像です。反面、なにか一つのメッセージ・一本筋の物語を見せたいときには不向きかもしれません。

 

・そもそも視界を制限する「壁の花」型

 すこし苦肉の策じみてるかもしれない。たとえばバーチャルカメラを壁際に置き、背後に完全に何も起こりえない空間を作ってしまうという方法です。自然に視線は一方を向くようになりますが、360°映像の利点が殺されてしまうのは惜しいですね

 

 

 ホームドラマ・ファンタジー・アクションものなど、表現したい題材によって、また作品内でのおおまかなシーンごとによってこれらの技法を使い分けていくなど考えられます。

 たとえば第一回「If」のようなホームドラマを想定してみましょう。

 最初の視点はリビングの壁際(壁の花型)です。視聴者は視界を左右させたあと、目の前の少し遠くにあるソファーと、そこに集まる人々を発見します。

 次に視点はソファーに寄ります。斜め上から家族をぐるり眺めることができるするカットです。それぞれが各自で色々なことをやっている様子がわかります(ゲームブック型)。家族全体での会話が交わされるカットです。

 そして事件が起こります。会話のなかで実は血縁がないと両親から知らされた息子と娘は、ショックのあまりソファーから立ち上がってリビングを横切り、ドアから出ていこうとします(視聴者の視線も二人を自然に追従します)。しかしその行く末にはダサTを着た人物が待ち構えていたのでした(絵巻物型)。

 こんな感じでしょうか?


 工夫をよく凝らせば、どうしてもアトラクション的な見方になってしまう全天周映像へ、VR空間だからこそできる、Vtuberだからこそ出せる「ドラマ性」を持たせられるのではないかと思います。

 

最後に そして別解?

 今回は時期尚早ながら、すこしVRドラマの未来を見て、映像技法はどうなるのか考えてみようという記事でした。

実地での生のノウハウや感覚がわからない分、ずいぶん適当な表現が多くなってしまったことをお詫びしたいです。が、筆者がこの分野にとてつもない可能性を感じていることは確かです。しかしいかんせんテクノロジーに疎くて………。

 やはり自分は歴史の地層を掘る方が向いているようです。ではちょっくら掘ってみると、映画の歴史の最初の方に面白いアイデアがありました。

 それは「活動弁士」です。声がついていない「サイレント映画」が主流だったころに存在した職業で、その場その場の人物のセリフや状況を時にまくしたて、時に情感豊かに演説し解説するという仕事。

 360°ドラマにも、さりげないしぐさや声掛けで視線や注意を誘導してくれる人、いわば「ムービーフェアリ―」とでもいうべき登場人物がいたら?あるいは、視界の端で移動を促してくれる犬妖精がいたら?

 必ずや、素敵なドラマになってくれることでしょう。

 

はやく観たい

(おわり)

バーチャル・ドラマの時間 ~”If Vtuber”と”夕餉前”~

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 家庭で家族が集まって、膝を寄せ合って会話をしている、何気ない日常を切り抜いたドラマ。

 VRChat上で制作、生放送される番組「VTV」内で放映された「If Vtuber」は、出演者であるVtuberの人々が発想を存分に発揮し、画面の前の多くの人々を楽しませました。

 ちょっとVtuber関連の作業に休みを取っていた筆者も途中からではありますが視聴し、その(超)展開にめちゃくちゃ笑いましたが、それと同時にふと思うことがあったのです。

 これは、どこかで見たことがある、と。

 既視感の源には、あるドラマ番組が存在したのでした。そう、「もう一つのIf Vtuber」とでもいえるような………。

 

テレビドラマ第1号「夕餉前」

 それが放送されたのは1940年。実に78年前のNHK

 おそらく今からしたら信じられないくらい不鮮明な白黒映像が、放送技術研究所から今のNHK放送博物館に設置されていたテレビ受像所へと送信されました。

 狭い実験スタジオの中にタンスや壁板などが並べられ、煮えているすき焼きを囲んで母とその息子、娘が談話するというドラマ、「夕餉前」。これが、日本で一番最初のテレビドラマです。

 感度が低いテレビカメラにはっきりと役者を映すため、10万ルクスもの光が焚かれたセット。衣服や髪が燃え、卓上のすき焼きが勝手に煮えだすような強烈な熱が発生する中、まだ画面の切り替えもぎこちない状態で………

 ドラマについて、残っている資料はわずかです。15分間ぶんの台本と、関係者の証言、実験の様子をとらえた記録映像くらいでした(それというのも放送する映像が記録できなかったのです)が、少なくともこの短編が当時の人々の関心を強く引いたことは確か。

 それまでメディアといえば新聞やラジオくらいしかなかった時代ですから、四角い画面の中で人が会話し、ささやかな物語が紡がれていく様子は、新しい時代がブラウン管の向こうから歩いてきていると、戦前の人々に強く感じさせたに違いない。

 その後も放送実験は熱心に続けられますが、やがて戦争が起き、全面的に取りやめになってしまいます。しかしながら、この時テレビドラマを作り、またドラマに触れた人々が、戦後のテレビ放送を創っていくことになるのでした。

 

バーチャル・ドラマの時間

  さて、ここで視線を平成末期に戻しましょう。If Vtuberもまた、はじめての試みでした。今度は日本初だけでなく世界初です。VRCas上で演技され、撮影され、Youtubeへと生放送されるドラマ「VRドラマ」の第一号が、まさにこの作品です。

 「夕餉前」が技術/ノウハウの未成熟によって、まだまだ完璧には程遠いものだったように、If Vtuberもまた途中で大変なことになったりしていました。まさかあんな設定だとは思わなかった。しかし(?)筆者はVRドラマというコンテンツに大きな可能性を感じます。

 ブラウン管の中の人々が手探りし、液晶の人々が育て、今や多様に発達を遂げたテレビドラマ。

 その起源をはるか後方に望みながら育つVRドラマとVTVの未来が、豊かで幸多きものとなるように、電脳空間の片隅から祈っています。(おわり)


参考: 

第1回VTV

https://youtu.be/TpkGcDFtTWk


テレビ放送技術史を俯瞰できるNHKのサイト

https://www.nhk.or.jp/strl/aboutstrl/evolution-of-tv/index.html


少女終末旅行を僕はいずれ失うと思う

最近、祖父の一周忌に参加した。

祖父は写真をよく撮る人だった。よく撮るというだけでなく、とてもうまい写真を撮る人だったが。
幼い自分を山ほど撮ってくれたし、自分の父が幼い頃の写真も沢山あった。はじめてみるようなとても若い祖母の写真もまた沢山あった。

本物の露頭のように分厚いアルバムの地層の一番下の方には、茶けてひび割れが走ったような古いものもあった。紛れもなく一族の記録なのだが、高齢の親族が回し見ても、誰が写っているのかさっぱりわからない代物だった。集合写真なのだが、被写体の名前が一人としてわからない。そうなると当然、撮られた時期も土地も理由もわからない。付加されるべき情報がまるごと失われてしまっていたのだった。

漫画 少女終末旅行の終わりを語るにあたって、そんなことを思い出した。ここより先、深刻なネタバレーション現象が発生するので御注意願いたい。

ここ最近なにかと忙しくて、ようやく第六巻を読むことが出来たのは四月の中旬だった。
正直なところ結末は予想がついてしまっていた。SNSでの反応をみるに、ああ、そうなんだな、と思っていた。そして実際そうなったのだと思う。説明が下手で申し訳ないが、そういうことです。

僕はその旅の終着を受け入れて、感慨に浸っていた。そしていかなる感想も言うまいと思っていた。チトとユーリ 二人の旅をわざわざ僕が肯定する必要がないのだ。むしろ、言語にすると沢山のものがこぼれ落ちて、ただ語義を納める箱だけになってしまうとすら思っていた。それは風化し、やがて劇中の画面を埋めていたような廃墟になっていくのだろう。

しかしふと、僕は廃墟を残したくなった。最終巻の最後のコマを見て、そこに並んだヘルメットのようなものを残せるのなら、自分はそれで良いと思った。例えそこに二つの小さな頭が収まっていた事実が失われたとしても、いくらかましかもしれない…

ここで自分の少女終末旅行についての思い違いを告白したい。僕はこの作品を、二人が人類の記録や記憶を「得ながら」旅をしていく物語だと考えていた。しかし、実はそれは真逆だったかもしれないと、第六巻を読んで悟った。これは二人が得る話であり、そしてやがて「失っていく」話だった。
チトは本を得て後に燃やし、ユーリはレーションを見つけるも、これは食べると無くなる。作った地図は散り、得た手助けで完成した希望の翼は折れ
二人は一匹のさかなの命を救ったが、その手で不慮にAIの命を奪ってしまう。ラジオはぬこの体内に消えた。託されたケッテンクラートは壊れて温泉に。

本来二つは不可分の物だということを、僕らは日常生活のなかで忘れるように努めているだけなのだが、廃墟の世界ではすべてが明らかになっている。

自分がいつか前に書店で少女終末旅行の一巻を発見し、その後各巻を追い、アニメ化に喜んだとき、僕は確実になにかを貰っていた。六巻を読み終えて、今もそれを大切にかかえている所だ。

となるとやはり、やがて失っていくのだろうと思う。いつかはわからない。唐突に不運が自分ごと消し去るかもしれないし、そうでなくても老いて忘れてしまうかもしれない。いずれにせよ生きていればそのときが訪れる。

それでも今思う。
少女終末旅行の全巻を読んだことは、最高だった。


長々と煮えきらぬ態度で文を失礼しました。
じゃ、そろそろ麦畑に行こうと思うので、ここら辺で。